住職より
日本に住む人々と『死』

太平洋戦争が終わってから、70年以上が過ぎようとしています。
戦後から日本は、高度成長期を迎えバブルの時代を経過・崩壊し、現在に至りました。

そしてその間に、日本人の宗教観も大きく変わっていきました。
戦争であまりにも多くの『死』を目の当たりにし、明治以後から戦争終結までの時代を忌み嫌うのと同様に、二世代・三世代が同居する『家族』という習慣すらをも避けるようになり、
昔の家の中でいつも隣合わせにあった、『死』そのものが存在しないかのように扱うようになったのが、現代の日本なのではないでしょうか。

病院の片隅で生涯を閉じ、そのまま葬儀会館に搬送され、今やそれが葬儀どころか直葬という形で、まさに一人の人間の生涯を生きている人間によって抹消される、『生きている人間こそが正義』のような感覚をもった人達が大手をふって闊歩する時代になろうかとしています。
またそれを後押しするかのような新興宗教も跋扈しています。

生きている人間の利益

現世利益(げんせりやく)という言葉はとても魅力的で、それを毎日聞いていると『死』というものを覆い隠してしまった今の日本のような社会では、特に永久に人間はそれを追い求めることが出来るかのような錯覚に陥ることになります。

強欲的な金儲け拝金主義、その目的達成の為に人を人とも思わない社会、そして自分の栄達だけを望んだ結果に発生した国家レベルでの借金。東北大震災での原発崩壊は、それらを具現化する悲惨な事故になってしまいました。
そして、あげくには自分自身がこの世に存在する「おかげで」あるご先祖様を放棄する人達、そしてその人々を後押しする拝金主義者たちの社会形成が、皆さんの知らないところで着々と進行しています。

つまり、今日の社会問題の根本にあるのは、その行き過ぎた『現世利益』の追求、
そしてそもそも現世で何を追求しなければならないのかが分からなくなった社会に原因があると私は考えます。
確かに、私も一人の人間として、この現世で毎日を幸せに生きることができるよう祈る気持ちはとても理解できます。
ただ、「幸せに生きる」ことが「お金持ち」になることではありませんし、例え「お金持ち」になったとしてもその欲求が充足することはありません。

利益追求と道徳観

少し話が変わりますが、現在のインドや中国で仏教はほとんど信仰されていません。お隣の韓国でも、仏教徒は宗教を信仰する人々の半数でしかありません。
しかしそれには理由があり、インドや中国では土着の民族宗教(儒教も民族宗教と考えます)が仏教に取って代わった歴史があり、韓国においても戦後キリスト教が急速に勢力を伸ばしました。
しかしこれらの国々は、仏教の影響が無くなった後も現世利益と道徳観念をこれまでの文化と宗教で上手くバランスを取りながら現代に至っています。

では日本はどうかと言いますと、日本の文化そして国民性から見ても、これから国民の大多数が儒教思想やキリスト教をはじめとする一神教文化・思想に変化する時代は来ないと思います。
それは基本的に『現世利益』=神道(神社)を受け入れることが出来る仏教の寛容さ(多神教の特徴)の方が他のそれより、本来の感性に合っているからだと考えます。

ところがその『現世利益』も度を越すと、最終的には先の大戦直前に陥ったような社会現象を生み、日本はまた同じ過ちを繰り返すことになるでしょう。
つまりは平安時代に大成し1000年もの間受け継がれてきた『神仏習合』という思想を、明治元年に施行された『神仏分離令(廃仏毀釈)』により破壊し、
『国家神道』というこれまでの神道とも違う「日本の国家のことのみを考えた偏った思想」で門出を迎えた明治日本が、どのような結末を迎えたかは、皆さんもよくご存知だと思います。

しかしその一度壊れた『神仏習合』という文化・思想は復活することなく、古いものや思想はなんでも否定する(戦前までの思想は何でも悪いものとする)戦後日本の間違った観念のもと、今また「自分さえ良ければ」といった考えが蔓延し社会を蝕み始めています。

日本においての仏教の役割

本来宗教に関して我々の祖先は、程よい現世利益と先祖崇拝信仰を、一つの宗教に偏らず平和共存させる『神仏習合』という概念で共存させ、そして長く日本の文化・生活の基盤を守り続けてきました。
私たち僧侶は、もう一度そのような正しい宗教観・宗教史を現代の日本に住む人々に語りかけ、我々が生きるにあたり宗教(=道徳)というものは必要不可欠のものであり、
また日本の場合はその根底にご先祖様を敬う心がありそれを大切にしていかねばならないことを訴えかけなければならないのです。

そして亡くなった方々を敬う気持ちと共に、今を生きる中で自らが幸せに生きることを追求していくことも大切です。
しかしその「幸せ」とはなんなのでしょうか。
「幸せ」とは、自分の欲求を満たすことなのでしょうか。

残念ながらどんなに祈っても、生きているうちに全ての物質的・精神的な『自分の欲求を満たすこと』ができる人は絶対にいませんし、もし願いが叶ったりお金や高価なものを得ることができてもそれは一瞬の幸せでしかありません。

「自らが幸せに生きること」とは、自分の『心の中を満たすこと』(=永続的な幸せ)であり、誰でも必ずその状態を得ることができます。

本来、仏教とはそういった『安心』(煩悩から解放される状態)をみつけるための教えなのです。

21世紀になり、今やっとそれらに気づき始めている方も増えてきたようにも感じます。
仏像の展覧会などが盛況であることは、日本に住む人々の持つ本来の心が、無意識にそこへ足を向けさせるのかもしれません。
是非、皆さんと、『安心』を学び合うことができれば幸いです。

 普照院住職     合掌
普照院(ふしょういん)
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