《今、仏教僧侶に求められる『自信』》
日常生活において我々は、時として自信喪失を味わうことがある。特にスポーツ選手など、戦いに臨んで思わぬ苦杯を舐めるようなとき、自分自身について秘かに抱いていた確信がゆらぎ、落ち込んだりするであろう。
ただ、この場合は悔しさが屈辱となり、次回は是非とも起死回生を遂げたいという、以前にも増して自発的な勇気が起こり、それが新たな努力となって顕われるものである。
なぜそういう自信回復への力が顕われるかというと、もともと「自信」というものがあって、それが奪われたからである。最初から自信がなければ、喪失ということもあり得ない。
ところで筆者にとってこのごろ、しきりと気に掛かるのは、仏教僧侶たちの、いかにも自信なさそうな言動である。それも自信の不在を羞じるような振舞いもあれば、まだしもであるが、自信の不在にさえ気付いていない様子に至っては、よくあれで法衣を身に着けておれるものよと、訝(いぶか)しくなるのを禁じ得ない。
こういう人たちが、何について自信を失っているかというと、僧侶でありながら、自分のよって立つべき教義を、心から信じることが出来ないということである。従ってそういう自分に対して、信仰者としての確固たる自信を持つことが出来ない、ということになるのだろう。
しかも食べるためには、法衣を捨てることもできず、内心忸怩たるものを抱きながら、ともかく形式的な法要儀式に身をやつすことによって、自分自身の聖域を守るという自己欺瞞のうちに、時を過ごしているだけということになる。
そういう職業的僧侶の欺瞞的なあり方に、敗北を喫したスポーツ選手のような悔しさが伴わない限り、今後、日本の仏教に本来化は期待できないのではないか。日本仏教再起のための根本条件は、仏教僧侶の「自信」の回復が何よりも先決条件であり、これへの努力がない限り、日本における仏教の命数は時間の問題と見るべきであろう。
ところで今日の仏教僧侶の「自信喪失」というものは、自己の信奉する教義それ自体に由来するものではない。言うまでもなく縦糸としての祖師の教説は、古今を通して永遠不変だからである。
問題は横糸でそれを紡いでいく僧侶たちの、個人の信仰心の側にある。「自信」は文字通り、今ここに、深い信仰心をもって生きている一人の自分がある、という自己確信がであって、教義を信じるかどうかという、外に向かっての「信仰心」のことではない。要するに仏祖の教えに対して、信じるかつまずくかの二者択一こそが、「自信」のメルクマークになるであろう。
この大切な自分に対する確信、すなわち「自信」ということについて、最も親切に説いている祖録の一つに、『臨済録』がある。臨済は弟子たちに向かって次のように言うのである。
「学道の人(修行者)、しばらく自ら信ぜんことを要す。そとに向かって求むることなかれ」「今の学者(修行者)の不得(悟れないこと)は、病、いづれかに在る。病は不自信の処に在り。なんじもし自信不及ならば、すなわち忙忙時にして、一切の境に徇(したが)って転じ、他の万境に回換せられて、自由を得ず」(*一部意訳)
『臨済録』は自力聖道門のテキストだから、自分に対する信頼を第一にするのは当たり前だ、と思う向きがあるかもしれない。しかし、いくら絶対他者を自己の外に立てる救済宗教であっても、神や仏との深い関係が成立するためには、信仰者が自己の有限性をしっかり見つめるという自己確立が前提であることは言うまでもなかろう。
今日、日本仏教の僧侶たちは、西欧近代のヒューマニズムに毒されて人間の能力を手放しに信頼し、自己の罪業性とか有限性という、救済宗教成立の根源条件さえ、まったく無自覚になってしまっているのではないだろうか。
〔中外日報:社説より〕
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《『ダライ・ラマ法王』日本公演》
平成19年11月22日、全日本仏教会主催によりパシフィコ横浜国立大ホールで「ダライ・ラマ14世」の講演会が開催されました。ダライ・ラマ14世は『信ずる心と平和』のタイトルで話されましたが、その内容を簡単にまとめてみました。
『信ずる心と平和』
20世紀、世界は大きな戦争を始め、流血、テロリズム等様々な問題に直面しました。そして21世紀を迎え、若い人の精神的な危機、環境問題、貧富の差などの問題を引きずっています。これらの問題は、我々の姿勢に原因があります。
これらの問題は、我々人間自身の誤り、関心の欠如、そして無知から引き起こされています。しかし、希望を捨てず自信を持つことが大切です。
例えば、日本は第二次世界大戦で原爆の被害にも遭っているにもかかわらず、希望を持ち、みんなが心を一つにして働いたので、今日の経済大国日本の繁栄を築くことができました。
我々が、希望と自信、そして強い決意を持ち、心を一つにすれば、未来は明るくなります。
20世紀の前半、我々は力そして戦争が問題を解決する方法であり、それが正しいと考えていました。全体主義体制のもと、自分の国の為に戦争にも行き将来を幸せを考えていました。しかし、後半、戦争の苦しみや困難な経験を通して、平和を求める気持ち、人間性の大切さを理解するようになりました。そのように考えると、この最悪な100年間の中で、人権も尊重されるようになり、人間性も熟してきて、20世紀は良くなってきたと言う人もいます。
我々が、体験を通して理解してきた我々の誤り、関心の欠如、無知を改善していけば、21世紀そして22世紀はより幸せで、より平和になるでしょう。
現実の認識
そのためには、現実のありようを正しく認識しなければなりません。
「新しい現実」、「地球規模の現実」というものに目を向けなければなりません。
今までは自国の事だけを考えていれば良かったが、今や世界は一つであり、資源を考えても相互依存しなければやっていけません。また環境問題も一国では対処できない問題です。解決の方法論を考えなければなりません。
心の問題
今までは、自分とそれに対する他者という考え方で、その解決に力たとえば戦争がその解決法と考えられました。
しかし、自分と他者とは別々のものではなく、「敵を害することは自分にも害が及ぶ」という「新しい現実」が見えてきました。
自分と他者とは相敵対するものと考えると、問題を解決することができなくなってきます。今まで注意を払ってこなかった、他者に対する思いやりという心の問題として捕らえなければなりません。心の覚醒が必要です。
宗教の大切さ
どの宗教も我々の人間性に関わっていて、愛や慈悲、ゆるしなど大切な考え方は皆同じです。
どの宗教を信じるのも自由ですが、大切なことは、その信じる宗教に真摯な態度を取り、実践し、深いレベルの体験をすることが必要です。
すべての宗教は、多くの人のためになり、役に立ってきたものであるから、どの宗教にも敬意を払わなければなりません。
仏教
仏教は、心について、そして人間の感情について非常に詳しく説明しています。
私は仏教の僧侶ですが、今日お集まりの5千人の皆様と同じ人間です。
人間は、皮膚の色、服、髪など外面は異なっていても皆同じです。仏性を心の中に持ち、同じ可能性を秘めている一人一人の人間なのです。
「仏性」や「縁起」という考え方は仏教だけのユニークな教えであり、一人一人の存在は、相互関連を持ってこの世に生まれてきているという考えが大切なのです。
釈尊という、一人の人間が修行を通して悟りを得てブッダになったという事実があります。その経験を通して、人間の感情、心のありようを分析しています。
たとえば、慈悲と怒りのように相反する感情がある場合に、一方の良い機能を高めれば他方の悪い感情を鎮められるというように、破滅的な悪い感情を変える事ができます。心に良い変化をもたらすことができるのです。
我々は身体だけでなく、心の健康にも気をつけなければなりません。心の健康を保つための情報が仏教にはたくさんあります。因果の法によれば、すべては相互依存の関係に有るので、60億の人々に仏教からの提言が出来るでありましょう。
〔時宗『遊行』誌:春彼岸163号より〕
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《あの世のイメージ》
井上:私の友人が突然、カトリックに入り込んで、ある日、自分の手の上にマリア様がいると言い出したことがあるんです。私はまさかと思ったのですが、とにかく本人は真剣でしたので、あるキリスト系大学の徳高い神父さんに聞いてみました。するとその神父さんは、
「そんな馬鹿なことはありませんよ。」 と言う。
「神父さんはそういうものは信じないのですか。」 と聞くと、
「いや、あの世があるかどうかは私にもわかりません。ただ死ぬ瞬間に、これからいいところに行けると思って死ぬのと、これから荒涼たる荒野を生臭い風と一緒に永久にさまようと考えるのと、なにもかも虚無だと思うのと、この3つを並べてみると、楽しいところへ行けると考えるほうがいい。そこで死ぬ瞬間に、あの世は綺麗で楽しいところだということを信じることができるよう、想像力を一生かかってあの世は楽土だというイメージを頭の中につくりあげている。それがカトリック者というものなんです。」 とおっしゃった。
司馬:偉い神父さんですね。鎌倉時代の親鸞上人も同じ態度でした。彼は、死ねば必ず極楽浄土に行くということは明示してはいないのです。その神父さんと同じように、行けるかもしれないと。ある時、親鸞の元に唯円という僧侶が訪ねてきます。その唯円が、
「南無阿弥陀仏と唱えると、本当に極楽浄土へ行けるのですか。」 と問うと、親鸞曰く
「私も分かりません。ただ、大好きな法然さんがそうおっしゃるから、私はそうだと思っている。」 と。
また阿弥陀如来が万人を平等に扱ってくださると信ずると嬉しく躍り上がりたい気持ちになることを「歓喜踊躍(かんぎゆやく)」というのですが、唯円坊が
「歓喜踊躍するというこでございますけれども、私は死ぬということで少しも雀踊(こおど)りするような気持ちにならないのですが。」 と聞くと、親鸞が
「唯円坊もそうですが。私はこんなに高齢になってしまったけれども、私も一向に嬉しくならないのです。」と答える。非常に正直なんですね。
井上:そうなんですか。どこから見ても尊いカトリックの神父さんが、先のことは自分にもわからないけれども、自分はそうやって一生幻を描いてきて、その自分がつくった幻のなかに入っていくことが死ぬということだ、と考えていることを知ったときはショックでした。ここに死ぬということを真面目に一生かかって考えている人がいる・・・
〔『国家・宗教・日本人』司馬遼太郎・井上ひさし:講談社文庫より〕
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《コンビニとエコ》
「タマゴが先か、ニワトリが先か」は、因果関係をめぐる水掛け論のたとえである。コンビニエンスストアの普及と生活の深夜化も、どちらがタマゴでニワトリなのか、白黒つけにくいものの一つだろう。
お目見えした頃のうたい文句は、「開いててよかった」だった。夜中に何かが必要になって、その通りに感謝した人は多かったはずだ。それがいつしか、24時間開いているのを前提に、人は暮らしを組み立てるようになった。
いまや、単なる小売店を超えた存在である。公共料金の支払いや、宅配便など多彩な横顔をあわせ持つ。さらに、ストーカーに追われるなどした女性の駆け込みが、年に1万3千件を超す。うち半数近くは深夜に起きている。
その深夜営業の規制などを検討する自治体が、相次いでいるという。省エネや、二酸化炭素の排出を減らすのが主な狙いだ。不夜城の明かりを消すことで、エネルギー消費の多い深夜型の生活を見直す。そんな理念も携えてのことらしい。
コンビニが煌々と輝くのは、夜にさまよう人たちを明るさで引き寄せるためか。とはいえ、早じまいをしたところで冷蔵庫は止められない。それやこれやで、不夜城の派手さに比べれば、実際の効果はごく薄いという。
明かりを消させても、それだけでは「ねらい撃ち」に終わってしまう。コンビニに限らず、少しすつでも便利さを捨てていく決意が誰にも必要だろう。素朴な時代に戻れるかどうかは心もとないけれど、今の暮らしにどっぷりでは地球が守れないのは、もう明らかなのだから。
〔『天声人語』朝日新聞7月1日号より〕
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《真実》
「真実」という言葉は、魅力的です。書物や映画にも、「真実」という言葉が付いた題名が多く見られます。それほど私達は「真実」という言葉に心を引かれます。しかし、私達の考える真実は、本当にいつの時代にも、誰においても変わることのないものなのでしょうか。もしそうであるならどうして、国と国や、人と人において、お互いの真実が対立したり、衝突したりするのでしょうか。結局のところ、私達の言っている真実とは、自分の都合なのです。そしてその都合は、状況や立場が変化すれば、その途端に変わってしまうものです。それは、真実と呼ぶことができないものなのではないでしょうか。
親鸞は、如来こそが真実なのであると、述べています。それは、人間を照らし出す如来のはたらきこそが、どのような時代においても、誰においても、決して変わることがないからです。親鸞は、そのような如来のはたらきによって、自分の本当の姿に気付かされたのでした。その本当の姿とは、如来が知っているようには何も知らないにもかかわらず、あたかも知っているように思い込んで、言い争い、相手を憎み、傷つけ合っている、そのような人間の姿でした。
私達は、他の人の悪いところはよく見えるのに、自分の悪いところはなかなか見えません。このようにいつも相手の方にばかり向いている眼を、自分自身に向けさせて、自分を本当に知らせてくれるのが如来のはたらきです。自分自身の姿に気付かせ、共に生きる道を呼びかけ続ける如来のはたらきこそが、決して変わることのない真実なのです。人々がその真実に出遇って生きていくことを願いながら、親鸞は「如来はすなわちこれ真実なり」と、示しているのです。
〔『大谷大学伝道掲示板 きょうのことば3』より〕
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《浄土の存在と釈迦の教え》
「そもそも浄土というのは、煩悩を離れて悟りの世界に入った仏や菩薩の世界のこと。釈迦には釈迦如来の浄土、阿弥陀如来には極楽浄土というように、それぞれの浄土が存在するとされている。(中略)
その他、浄土以外の死後の世界を教えている仏教宗派は存在する。一見、釈迦の教えに反するように見えるが、実はそうでない。なぜなら、日本の仏教宗派が最も大切にしている教えが「今この時を大切に生きる」という釈迦の教えだからである。宗派によって教えがいくら異なっていても、その支柱には今もこの教えがしっかりといきている。
最近は、前世や来世、死後の世界の話ばかりする‘仏教まがいの新宗教”が増えているが、この釈迦の教えを知っていればエセの宗教に騙されることはないだろう。
〔『世界三大宗教 三笠書房』より〕
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《僧侶と自殺》
公の自殺統計は毎年ニュースなどで世間に知らされているが、世の中に露出していないところで、その急増が大きな問題とされているのが、僧侶の自殺である。動機や理由は警視庁発表の統計と変わらないが、問題視されている点は、世間で「働き盛り」とされる30〜40代が多いことだ。
何故、この世代が増えているかというと、一説には学生時代に日本のバブル経済を経験した世代ということが関係しているという。つまり、僧侶になる決断を「単純に家業を継ぐ」あるいは「葬儀ビジネスに携わる者」として考え、肝心の仏教の教えを学ぶことを後回しにして、外見ばかりにこだわり、宗教者としての中身が備わっている者がすくないからだというのである。
実は、現代の日本の僧侶は、葬儀のスペシャリストという自負はあるものの、自らが宗教者、あるいは出家修行者であるという意識を持っている人がほとんどいない。そんな意識は、修行道場などでの修業時代に多少持つ程度で、そこを出て自分の寺院に戻ってしまえば、一般人と同様の意識で日常生活を送る。その後、仏道修行や仏教の勉強を継続して行っていないという僧侶が大半を占めているのである。
その為、他人に対しては宗派の受け売りの教えを説くことはできるものの、いざ自分自身で問題を抱えると、仏法を用いて解決することができない。僧侶とは名ばかりで、普段から自らの悩みと正面から対峙することをせず、しかも仏教の基本的な教えを明確に理解していないため、一般人とどうように簡単に動揺してしまうというのだ。
このことは、働き盛りの30〜40代の僧侶の自殺の理由が、俗世間の人々と同じであることからも推察できるだろう。
また最近の若い世代は、輪廻転生思想を「今を死んで終わらせてしまえば、次は自分に都合よく生まれ変われる」と解釈し、自らの自殺理由に挙げることが多いという。最近の僧侶の自殺急増もその傾向が強いというが、これは本末転倒もはなはだしい。
仏教では、まず基本的な五戒の中で「不殺生戒」を掲げていることから、自殺は自分で自分を殺す行為と考え、原則的に犯してはならない行為とされている。
ただし、仏教の開祖である釈迦は、仏の智慧をしっかりと身につけて、悟りを得て、輪廻転生の呪縛から解脱して仏陀となった者は、いつでも涅槃へ行けると教えている。
この教えを安易にとらえると「仏教は自殺を容認している」となってしまう。ところが釈迦の教えはあくまでも仏陀となった存在に認めているのであって、「もう一度生まれ変わって人生をやり直したい」という都合のいい輪廻転生の考え方を持つ、一般の人や僧侶の自殺は一切認めてないのだ。
釈迦はそうした人々に対して、次のように明確な教えを説いている。
「過去を悔いて振り向かず、未来を恐れず、ただ今この時を大切にして生きなさい。」
〔『世界三大宗教 三笠書房』より〕
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《宗教を知るということ》
仏教・キリスト教・イスラム教という三つの宗教を見てきたが、それぞれの教えが生まれたのは、悟りや神の啓示だけではないことを理解していただけただろうか。
一つの宗教が誕生するには、その地域の環境やそれまでの歴史、当時の社会背景や時代の流行、教えを説いた開祖の体験や経験など、さまざまものが加味されている。
それらを人間の心を救うために、あるいは癒しを与えるために編纂しシステム化されたものが宗教の教えなのである。
日本人の多くは、宗教というものを「お金を払えばご利益が貰える」商品のように考えている傾向が強い。しかし、この三つの宗教を見てもわかるように本来の宗教の教えには、そんな人間に都合の良い教えは存在しない。人間は宗教の教えを信じ、神に篤い信仰、あるいはその教えの実践を続けることが必要だと教えているのである。
見えない霊や先祖を脅し文句に「これを買えばあなたは救われる」あるいは「お金を払うことで、あなたの信仰レベル(霊的レベル)はこれだけ上がる」というような類の宗教はエセ宗教だと思って間違いない。
なぜなら、この三つの宗教は私達人間に対して、生きていく方法や商売のヒントを教えとして与えることがあっても、金品を要求する教えはまったく説かれていないからだ。日本人は正月や受験のときに神社で賽銭をあげる習慣があるため、ご利益は金で買うというイメージを知らず知らずのうちに持ってしまうが、本来の宗教のご利益はお金ではなく、信仰心とその実践で得られるものなのである。
一方、世界では宗教を巡るさまざまな問題が起きていることも忘れてはならない。そうした問題を理解するためにも、私達は今、正しい宗教の知識を身につけなければならないのである。
〔『世界三大宗教 三笠書房』より〕
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《釈迦の金言》
| 諸行 |
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宇宙のいとなみは |
| 無常 |
・・・ |
動きつづけて止まるところがない |
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| 諸法 |
・・・ |
宇宙の法則は |
| 無我 |
・・・ |
すべての存在のために働いている。
(人間、或いは他の特定のものだけに都合よく働いているのではない。) |
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| 涅槃 |
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すべてが安定し |
| 寂静 |
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あるいはただ静かな自信のみ |
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| そのような覚りの中では |
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| 常楽 |
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なにごとも楽しく |
| 我浄 |
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心身は自ずから浄らかになる |
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