《蝉の死骸の話》
 お盆参りも終わったある夕方に、お寺の境内を掃除しておりますと、玄関の隅に蝉の死骸が落ちておりました。
 蝉の命は地上に出てきてから一週間と聞いております。夏も終わりに近づき役目を終えた蝉かと傍に寄りますと、地蔵さんに供えてあった花も一緒に落ちておりました。風の偶然にしては奇妙だなと思いつつ、その日はそれらを掃き集めるのは止めました。
 その夜、うちの七歳の長女が
「お父さん、玄関の蝉を捨ててないやろな?」
と聞いてきましたので、
「あの蝉さんは、お前があそこに置いたんか?」と問いますと、
「いや、あそこで死んでたんやけど、可哀想やからお花を拾ってきて一緒に置いといた。」と答えました。
 風の偶然ではなかったのです。つくづく、日常の何気ない大人の動作を子供はしっかり見て色々考えているのだな、と思いました。
 昨今、子供が親や兄弟を殺した上に火をつけたり、見知らぬ他人を突然殺してしまったりといった考えられない事件が続発しております。
 子供をしかったり、色々な事を強制する前に、まず大人自身がそれを守っているか、理解しているか、そして言うだけではなくやってみるということを、私も実践していこうと思います。

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《荒川選手の金メダル》
 もうすぐ北京五輪が始まりますね。着々と各種目代表選手が内定しつつありますが、皆さんには本当に頑張って欲しいものです。
さて少し前の話になりますが、トリノ冬季五輪を覚えていらっしゃいますでしょうか。トリノと言えば、日本選手で唯一金メダルを勝ち取った荒川選手が真っ先に出てくるのではないでしょうか。彼女は当然のように金メダルで優秀の美をかざりましたが、その道のりはとても険しいものであったと聞きました。
彼女は小さい頃から才能のある選手として注目されていたのですが、その才能はなかなかオリンピックでは開花しませんでした。特にトリノの前の五輪では出場の機会まで失いました。そのような試練を乗り越えた彼女だからこそ、トリノで日本はおろかアジア初のフィギアスケート金メダルを獲得出来たのでしょう。
メダルを決めた直後のインタビューで彼女はこう答えたそうです。
「メダルが取れたらいいな、とは思ったのですが、あんまり欲をかいちゃいけないなと・・・今日は何も考えないで無心に滑ろうと・・・それが、まさか金メダルになってしまうとは思いませんでした。」
この言葉のように、彼女は試合直前までライバルの演技は全く見ずに、ヘッドフォンで音楽を聴いていたそうです。その為、彼女は相次ぐライバルの転倒を知らずに演技に入ったそうです。その時に彼女の心の中にあった言葉は、「平常心」だったそうです。そしてそれが、無欲の勝利を呼び込んだのでしょう。
スポーツに限らず、人間生活の色々な場面でも、目標を持ちそれに全力投球しなければ勝利や成功はやってきません。しかし、それが物欲に左右されてしまっては最終的にその目標には到達することは出来ないでしょう。
最後の瞬間に至る過程の努力も勿論大切ですが、その瞬間にいままでの努力が発揮出来るように、この「平常心」と「無我の心」を常に心がけることが出来るようにも努力していきたいものです。
この心構えは、日々の生活にも充分役立つ言葉だと思います。そして仏道修行とは、正にそういうことをいうのだと思います。

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《箱根駅伝と時宗総本山》
正月2日から3日かけて、東京〜箱根〜東京を走る今や年始の国民的行事となったこの駅伝。毎年箱根の山などでドラマがあり、普段マラソンには興味の無い私でも興奮と感動をいただいております。
その歴史は意外と古く、1920年に第1回大会が行なわれたそうです。当初は地味な大会だったそうですが、テレビ中継開始以降、知名度は一気に広がり、今や沿道の観衆は片道だけで50万人を数えるそうです。
さてこの駅伝の途中、私達の宗派の総本山遊行寺のすぐ脇を選手が走り抜けていることをご存知の方はいらっしゃいますでしょうか?特に復路(箱根→東京)では、最大の難所『遊行坂』として優勝を占う箇所の一つとして毎年注目されている場所です。
是非、チェックして見て下さい。

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平成19年の初夏、曹洞宗大本山永平寺に於いて、実践布教研究会という各宗派の僧侶の集まる研修会が行なわれました。私も、時宗の代表という形で参加させていただきました。
さて、この研修会は会議と併せて、NHKの放送で一躍有名になった永平寺の複雑な食事作法や座禅が中心の「永平寺の修行」をわずかながら体験させていただけるものでした。
100%到着した次の日から、永平寺維持の修行僧と同じ起床時間である(多分)午前3時に起こされ、いきなり一時間半の座禅が始まります。曹洞宗の座禅は他の禅宗(臨済宗・黄檗宗)と違い、座禅中は「無心」でなければならないそうで、ある意味我々の宗派時宗でいうところの念仏三昧と同じ境地であるように感じ、座禅をしない宗派の僧侶にとってもとても清清しく、他宗の作法とは思えない大変気持ちの良いものでありました。
次に、朝のお勤めが終わり、いよいよ朝食の時間となります。この食事、つまりは食事作法の体験というものが、正直なところ本当に苦痛でございました。朝食として、お粥・漬物・お茶が出されたのですが、作法が複雑な為にこの三品をいただくのに一時間半近くの時間がかかります。私達の宗派の修行における食事に対する考えは、『とにかく早く食べてしまう。』ことでしたので、正直何故このような複雑な食事作法があり、その為にこのような沢山の時間を無駄に使うのか、といった疑問が食事中、常に頭を駆け巡っておりました。この『永平寺の食事体験』はこの朝食と同日の昼食の合計2回でございましたが、昼は少し慣れたこともあり作法も少しは手際よく出来るようにはなりましたが、所要時間は同じようなものでございました。
しかし、たった二度の食事作法の体験ではございましたが、昼食をいただいている際に、朝に私が考えた疑問が、ほんの少しではありますが解けたような気がしました。食事を「いただいている。」ということを充分に感じるための時間は、本当は一時間以上の時間が必要なのであり、けっして無駄な時ではないのである、と。
『食事』という毎日当たり前のように行なわれている行為だからこそ忘れてしまっている、それに対する感謝を思い起こさせていただいたこの修行と共に、永平寺のご老僧の皆様のご法話の中にも、常に「いただいている」という言葉が多用されていることに気づき、とても感心した3日間でした。 合掌

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《健康と長寿十則》
少肉多菜     少怒多笑
美食過酒は病のおこる因となる。聖人そして賢人は粗食にして長寿を得たりと。又、怒る事をせず笑って事に処して執着しないという。
少塩多酢(たさく)少衣多浴
何事も過ぎれば外となる。古今より用い方により酢は万素という。己の衣食住をもう一度見つめる事。顔手は常に素裸なり、漸次きたえ過食を慎むべし。
少糖多果     少欲多施
甘い言葉甘い交わりと、あまいものには常に注意が肝要。欲は人を変え、みにくい人間となし、欲は己を滅ぼす。心と物の施しの出来る人は滅びざる人なり。
少食多噛(たそ) 少言多行(たこう)
適量に食し又これを良く噛む事は健康第一なり。不言実行も大事なり。されどよく言いよく行なう者は、なお大事にしてこの世の宝びとなり。
少煩多眠     少車多歩
物事にこだわらずその理をわきまえる人は心平安なり。昔の人はよく歩き、苦しみと悩みの人に光明を与え、なお長寿を得たりと。

仏道修行とは、これらのことを言うのかもしれません。長寿を願うと共に、自分とそして伴侶や子供達が健康である為に是非、実践したいものですね。

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《日常の五心》
1、ハイという 素直な心

2、すみませんという 反省の心

3、私がしますという 奉仕の心r

4、おかげさまですという 合掌の心

5、ありがとうという 感謝の心

よく見る標語ですが、なかなか実践できないものです。
気づいた時にもう一度振り返ることも大切です。今日からまた、是非実践して下さい。

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《住職の友達の一言》
私の古くからの友達からのメッセージを紹介します。
彼女はクリスチャンです。

『室蘭教会の神父さんは飲み物は白湯しか口にせず、貧乏暮らしで教会を守ってます。
行かせてもらう人が尊敬するような人に、どんな宗教であれ説く人はそうあって欲しいものです。』

まったくその通りだと思います。
いつもこの言葉には、私自身の生活態度を振り返って、
大いに考えさせられます。

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《腰骨を立てる》
下腹に力を入れて
腰骨をシャンと立ててごらん
かたやむねに力を入れないで
あごをひきましょう
すばらしい姿勢です
元気な体のもとです
頭が澄んできます
あなたのわがままに勝てる姿勢です
あなた自身を見直せる姿勢です
厳しい世の中をのりきる姿勢です

心と体は一つ。これが『心身相即』

心と体は ひとつなんだ
うちわの表と 裏のようにね
心がシャンとすれば 体もシャンと するんだよ
体がシャンと すれば
心もシャンと するんだよ
腰骨を立てると
心も しっかりしてくるんだよ
このことを 『心身相即』 というんだよ

娘の幼稚園の卒業証書の中に入っていた文章をお借りしました。
すばらしい!

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《戒名をいただいて》
ある僧侶にお聞きした話です。
生後わずかの子供を亡くされた家族の葬儀の際のことですが、どうしても俗名で葬儀をして欲しいとご家族にお願いされ、戒名をお授けすることなく故人をお送りしたそうです。そのご両親にとっては、初めてのお子さんでしたので、特に母親の悲しみは深かったそうです。
その後、一年が過ぎ年忌法要を終えられた際に、そのご家族から故人の為に戒名をいただきたい、と依頼があったそうです。
そうすることで、一年経ってもご家族にはまだまだ悲しみの癒えない状態ではありますが、我が子を戒名で呼ぶことにより亡くなったことを自覚し、それを乗り越えて行こうという気持ちになられたのだと思います。
同じように、一周忌や三回忌といった年忌法要を行うことも、やはり人間が大切な親族を亡くしてしまい、そこから立ち直ることに必要な期間であるのです。
我々僧侶にとって戒名は、戒律をお授けした(仏教徒になった)証しであると理解はしておりましたが、
残された遺族にとっては、故人が戒名を授かることで心の安らぎを得ることも出来るのだと、改めて感じ入りました。
逆縁と言いまして、仏教、キリスト教や他の宗教、そして全世界においても子供が先に亡くなること程辛いことはありません。
一人でも多くの子供が、立派に成長し活躍出来ることを祈ります。
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 《台風が来ませんでしたが・・・》
今年(2008年夏)は、台風が全くと言っていいほど上陸しない年でした。
私の父親は農業に従事しており、私以上に天気を気にしている毎日を送っていると思います。単純に、台風は来ない方が、稲の刈入れ期には都合が良いでしょうし、ビニールハウス等の被害等も無い訳です。
ただ、植物にとって水分は、とても大切なものです。日本の秋は、通常、高気圧に覆われるわけですから、雨を降らす原因は主に台風になるのです。だから、結局のところ台風が来ないと、農業従事者にとっては一大事となってしまいます。
大きな意味でも、最近世界各国で甚大な被害を出すこの熱帯性低気圧(台風、ハリケーン、サイクロン)は、地球規模で見ると大気の循環の大きな要因となっているので、これらが無くなってしまうと、極地では今以上に寒く、赤道付近では今以上に暑くなってしまうのです。

このように人間はその時々によって、天からの恵みを災いだと感じ、またその反対についさっきまで災いと感じていたものを、恵みが来ないと愚痴をこぼすのです。

そんな時は、常に心の中を穏やかにし、仏教で言う中道の精神を思い起こしていただきたいと思います。
昨今話題になっている環境問題も、すべてこの因果の『因』は、我々人間が作っているのです。
地球温暖化は実際には起こっていないとする学者もいるようですが、どう考えても我々人間が地球上に、二酸化炭素を含めたゴミをばら撒いていることに変わりはありません。
何事にも感謝することを忘れずに、
物を大切にするということは感謝することです。
それを捨てる時も感謝すること、意外と忘れられてますがこれも大切なこと。
そして忘れてはならないことは、人の命(自分の命も含め)を大切にすること、
生きていること生かされているということを感謝することです。

常に違う角度から自分や他人、そして生活全般を眺める余裕を持つことを心がけていただければと思います。
ちょっとそれが難しいと思った方は、是非お寺にお参り下さい。お寺は、仏道は本来その為にあるのですから。
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